ひとりの少年が長老たちの一団とともに茂みの中へ入っていき、そのまま戻ってこない。本当の意味では、戻らないのだ。数週間後、同じ顔をした誰かが村へ帰ってくる。だが家族は、別の人物として迎えるよう告げられる。送り出した少年はもういない。その場に立っているのは一人の男だ。村人たちはこれを文字どおりの真実であるかのように振る舞う。彼らにとって唯一意味のある意味において、それは真実だからだ。儀式がその仕事を成し遂げ、ひとつの社会的アイデンティティが作り直されたのである。
こうした光景は初期の人類学者たちを当惑させ、彼らはそれを異国の迷信として片づけたい誘惑に駆られた。ところが一九〇九年、ベルギー生まれの学者アルノルト・ファン・ヘネップは、まったく異なる文化に散らばって見られるこの種の儀礼が、いずれも同じ隠れた振り付けに従っているらしいことに気づいた。彼の小著『通過儀礼(Les rites de passage)』は、人間社会の研究における最も息の長い観念のひとつに名を与えた。そしてそれは、茂みの中での加入儀礼を説明するのと同じくらいうまく、卒業式や結婚式、入隊初日のことをも今なお言い当てている。
ファン・ヘネップが解こうとした問題
人間の生はなめらかな坂ではなく、階段である。私たちは子どもから大人へ、独身から既婚へ、よそ者から成員へ、生者から死者へと移っていく。あらゆる社会はこうした移行を取り扱わねばならない。なぜなら、地位を変えつつある人間は、一瞬のあいだ社会的に曖昧であり、いくらか危険ですらあるからだ。もはや子どもではないが、まだ大人でもないとき、あなたは何者なのか。共同体は、混乱を招かずに人々をこうした境界の向こうへ送り届ける手立てを必要とする。
ファン・ヘネップの洞察は、こうした瞬間を刻む儀礼が無秩序なものではないという点にあった。アフリカ、アメリカ大陸、アジア、ヨーロッパの諸文化にわたる資料を眺めたうえで、彼はこう論じた。通過儀礼は、三つの局面からなる単一の根底的なパターンを共有している。 まず人はかつての役割から切り離される。次に奇妙な中間地帯を通り抜ける。そして新しい役割をもって社会に再び結びつけられる。彼はこれらの局面を分離、過渡、統合と呼び、ひとたび目を凝らすことを覚えれば、この形をどこにでも見いだせるのだと主張した。
中間の局面に彼が用いた語は、敷居あるいは戸口を意味するラテン語「リーメン(limen)」に由来する。それは静かに完璧なイメージだ。戸口とは、あなたが去ろうとしている部屋でもなければ、入ろうとしている部屋でもない。扉をくぐり抜けるには、ほんの一瞬、どちらの場所でもないところに立たねばならない。その束の間の「あいだに立つこと」こそが、理論全体の核心であることが明らかになったのである。
分離:古い自己を後に残す
第一の局面は、古いアイデンティティを剥ぎ取る。加入者は日常の生活から引き抜かれ、しばしば家庭や家族、慣れ親しんだ日課から物理的に引き離される。そこにはたいてい、断ち切りを象徴する所作がある。髪が剃られ、ふだんの衣服が取り上げられ、名前が脇に置かれ、慣れ親しんだ食事が禁じられる。言葉ではなく身体を通して届けられるそのメッセージは、かつてのあなたという人間はもはやここでは通用しない、というものだ。
軍の新兵訓練所における新兵を考えてみよう。 新参者はバスを降りた瞬間、市民生活から切り離される。髪は一様な長さに刈られ、衣服は替えられ、私物は没収され、名前さえ階級や番号にまで切り詰められることがある。これらはどれも偶発的な残酷さではない。それは教科書どおりの分離儀礼であり、市民を溶かし去り、新しい誰かのために地ならしをするよう設計されている。
同じ論理は、より穏やかな儀式の隅々にも流れている。生家を離れる花嫁、修道院に入る修練者、家族から遠く離れた寮へ移り住む学生。そのいずれもが、それまでの世界からの意図的な切り離しによって印づけられる。新しい自己を留めつける前に、古い自己をゆるめておかねばならないのだ。
リミナリティ:世界と世界のあいだの時間
中間の局面こそ、事態が奇妙になるところであり、のちにイギリスの人類学者ヴィクター・ターナーを魅了した部分でもある。一九六〇年代以降に研究を進め、現在のザンビアにあたる地のンデンブ人のあいだでのフィールドワークに大きく依拠したターナーは、ファン・ヘネップが軽んじていた中間段階を取り上げ、それ自体ひとつの豊かな理論へと作り変えた。彼はこの中間状態をリミナリティ(境界性)と呼び、そこを通り抜けつつある人々をリミナルな存在と呼んだ。
リミナルな存在は、ターナーの鮮やかな言い回しを借りれば「あいだのまた、あいだ(betwixt and between)」にある。彼らは古い地位を脱ぎ捨てたが、まだ新しい地位を手に入れてはいない。だから社会のふつうの規則からすれば、彼らはほとんど存在していないに等しい。これこそ、加入者がしばしば、目に見えない者、穢れた者、あるいは死んだ者であるかのように扱われる理由だ。彼らは森に隔離され、口をきくことを禁じられ、衣服も持ち物もないままにさせられ、指導者に絶対服従するよう求められることがある。地位を持たない彼らは、共同体が新しいアイデンティティを書き込むことのできる一種の白紙へと還元される。
ターナーは、彼を夢中にさせる別のことにも気づいた。リミナルな局面を共有する人々のあいだでは、ふつうの社会的区別が崩れ去る傾向があるのだ。同じ試練をくぐる加入者たちは、平常ならば彼らを隔てるはずの目印を剥ぎ取られ、そのあいだに平等と仲間意識の強い絆が湧き上がる。ターナーはこの感覚に独自の名を与えた。コムニタス、すなわち地位が宙づりにされたときに立ち現れる、共通の人間性の強烈な感覚である。過酷な試練を分かち合うあいだに見知らぬ者たちと激しく結びついた経験のある者なら、つらい訓練課程であれ、長い巡礼であれ、彼が言い表していたことを思い当たるはずだ。
リミナリティはまた、社会が最も大胆な教えを授ける場でもある。通常の規則から解き放たれたリミナルな空間は、聖なる知識を明かすため、日常の世界をひっくり返すため、そして自らの文化の最も深い価値と加入者を向き合わせるために用いられうる。それは居心地が悪く、ときに恐ろしい。だがそれこそが要点なのだ。その居心地の悪さが、教えを心に焼きつけるのである。
統合:新しい誰かとして戻ってくる
最後の局面は、変容を遂げた人を社会へと連れ戻す。ただし新しい立場でだ。曖昧さは終わる。加入者は新しい衣服、新しい名前、新しい特権、新しい責任を与えられる。そして決定的に重要なのは、共同体が今や彼らを、彼らがなった新しい人物として認め、そう扱うようになることだ。開いていた扉が、彼らの背後で閉じられる。
大学の卒業式を思い浮かべてほしい。 高等教育というリミナルな宙づりの中で、学童でもなければ一人前の専門職でもないまま何年も過ごしてきた学生たちが、個々の違いを消し去るローブを身にまとって集まり、厳格な順序で行進し、家族と教員からなる聴衆の前で正式に卒業生と宣せられる。握手、卒業証書、学生から卒業生への肩書きの変更。これらは最も純粋な意味での統合儀礼であり、私的な変容を公に、承認された社会的事実へと転換するのだ。
ファン・ヘネップは、すべての儀礼が三つの局面に等しい重みを置くわけではないと観察した。葬儀は、と彼は指摘する、分離を強調する傾向がある。その主たる務めは、死者を生者から切り離すことだからだ。結婚式は統合を重んじる。その目的は、二人の人間を、そしてしばしば二つの家族を、新しいひとつの全体へと結びつけることにあるからだ。加入儀礼は最も長くリミナリティのうちに留まる。その仕事のすべてが、人生のある段階から別の段階へと至る危険な中間航路だからだ。三部構造の骨格は常にそこにあるが、儀礼が異なれば、肉づけされる骨も異なるのである。
なぜこの理論は今も旅を続けるのか
この観念をこれほど長持ちさせているのは、それが生まれた村落の文脈をはるかに離れてもなお働き続けるという点だ。現代の生活は通過儀礼で飽和している。たとえ私たちがそう呼ぶのをやめてしまった場合でさえ。そしてその構造を見て取ることは、奇妙なほど物事を明快にしてくれることがある。
初めての仕事には、その分離(学校を去ること)があり、そのリミナルな期間(従業員ではあるがまだ信頼されてはいない、気まずい試用の数週間)があり、その統合(同僚たちがついにあなたを身内のひとりとして扱うようになる瞬間)がある。宗教上の堅信式、市民権授与式、退職パーティー、さらには出産をめぐる儀礼さえも、すべてがこのパターンに重なる。ターナーはさらに踏み込み、演劇から巡礼、余暇の旅に至るまで、現代の経験のまるごとの諸範疇が「リミナルな」、あるいは彼が「リミノイド」と呼んだ性質を帯びており、ふつうの役割からの一時的な逃避と、コムニタスの味わいを差し出しているのだと論じた。
この理論には批判者もいて、彼らはもっともな指摘をする。重要な人生の変化のすべてが、整然とした儀式によって印づけられるわけではない。また、ファン・ヘネップは、彼のモデルが認めるよりも雑然として多様だった営みに、こぎれいなヨーロッパ的パターンを押しつけたのだと論じる学者もいる。現実の儀礼は、局面をぼかしたり、飛ばしたり、繰り返したりしうる。三部からなる図式は、共通の傾向を浮かび上がらせるレンズとして扱うのが最もよく、あらゆる文化が従う鉄則として扱うべきではない。そのように用いられるかぎり、それは人類学が生み出してきた中で最も静かに力強い道具のひとつであり続けている。
要点
アルノルト・ファン・ヘネップの一九〇九年の通過儀礼という観念は、数十年後にヴィクター・ターナーによって深められ、人間が人生の大いなる境界を渡っていくさまを理解する手立てを人類学に与えた。そのパターンには三つの動きがある。古いアイデンティティが剥ぎ取られる分離。加入者が「あいだのまた、あいだ」となり、しばしばコムニタスの深い絆を結ぶ、危険で創造的な中間としてのリミナリティ。そして、変容を遂げた人が、共同体が認めることに同意した新しい地位とともに社会へ迎え入れられる統合である。茂みの加入儀礼から新兵訓練所まで、結婚式から卒業式まで、同じ隠れた振り付けが繰り返し現れる。どの社会も、人々をある社会的状態から次の状態へと安全に移すという同じ課題に直面しているからだ。このモデルは普遍的な法則というより傾向であり、文化がどれほどきれいにそれに当てはまるかをめぐって学者たちは今も論じている。だがその核心の洞察は色あせない。儀式は私たちの変容をただ印づけるだけではなく、それを成し遂げる手助けをするのであり、境界をくぐり抜けることで、私たちはまぎれもなく新しい誰かになるのである。
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